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執筆者の写真minamino-church

【お詫び】9月20日の礼拝に関して

 本日、YouTubeを介して礼拝にご参加くださった皆様にお詫び申し上げます。礼拝終了後、Wi-Fiの調子が芳しくなく、配信が最初の段階で終わっていたことに気づきました。時間を合わせてご参加くださった皆様には大変なご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。

 以下、本日のメッセージの要約をお分かちさせていただきます。どうぞ宜しくお願い致します。宣教の原稿をお求めの方はメールにてご連絡ください。


聖書: 創世記 2章4節から25節

宣教題:「神のかたちにとして造られた人」


【序】

 私たちは創世記から「神のかたちに造られた人」の生き方について学びたいと思います。創世記1,2章には神が天地万物を造られた「創造のみわざ」が書かれています。人間は最後の六日目に造られ、エデンの園に置かれ、神の祝福のうちを生きていた、そんな幸せな光景が描かれています。

 しかし私たち今を生きる人間は、アダムとエバが罪を犯して以来の世界で生きています。従って、創造のはじめの世界にあったエデンの園のような祝福を今味わうことは不可能と言えます。人が罪を犯して以来、神のかたちは歪められてしまったからです。

 しかし聖書は言うのです。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(コリント人への手紙第二 5章17節)」神はイエスを信じる人を、「新しく造られた人」、つまり「新しい被造物」としてくださったのです。

 「新しくされた」ということは「これまでの生き方、価値観」などは「過去のもの、古いものになった」と言うことです。罪に支配されていた私たちは、恵みに満ちた新しい支配者に支配される者となり、これまで生活していた場所から離れて、新しい社会で生きるようになった、ということです。

 私たちはここ数週に渡って「教会」について考えてきました。今日の箇所を敢えて「教会」に関連して考えるならば、教会を構成する私たち一人ひとりの信仰の日常についてと言えるかも知れない。


1.神のかたち:神との関係性の回復


 さて、人の創造に関しては、まず1章26節から28節に書かれています。神は、人を男と女に、ご自身のかたちとして創造された、とありますが、具体的に「神のかたち」とは何なのでしょうか。聖書には私たちが目にする「かたち」については書かれていないことから、神のかたちとは「目に見えないけれども確かにあるもの」であることが分かります。では一体神は、私たちをどのようにご自身に似せて造られたのでしょうか。

 神は創世記2章で、創造のみわざの一つであり、クライマックスである人の創造を丁寧に説明していますが、神がおっしゃりたいことは一つのことであるように思えます。それは「神は人をご自身のかたちとして、男と女に創造された」(1:27)にあるように、「関係性において、神に似せて造られた」ということです。ですから、人はひとりでは人間性を発揮できないと言えます。三つにましてひとりなる神が、ご自身の完全なる愛のうちに交わりを保ち、神のご性質を現し、保たれているように、人間も神の愛のうちに交わり、関わ合う中で、神の聖さを現すのです。

 神は、私たち人間が神との正しい関係に生きるために、人の鼻にいのちの息を吹き込みました。またエデンの園の中央に「善悪の知識の木」を生えさせ、そこから実を取って食べてはならない、と命じられました。その命令を守る間は、人は神との祝福に溢れた交わりの中に生きることができたのです。

 しかし人は、神のことばを軽視し、善悪の知識の木から実をとって食べました。罪は神との関係を破壊するほどに恐ろしいものです。神との祝福に満ちた交わり、神との正しい関係は、罪によって破壊されました。

 イエスは私たちをその血によって私たちのすべての罪を償い、贖ってくださいました。それは神とイエスを信じる人を和解させてくださるためでした。そして罪を悔い改めて、イエスの名によってバプテスマを受けた人に、賜物として御霊を与え、真理に生きる人としてくださるのです。

 パウロがテモテに教えたみことばは、救われて新しくされた人が、神の霊と神のみことばによって神との正しい関係の中に生きることを良く表していると思います。

「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。(テモテへの手紙第二 3章16-17節)」

 キリストの贖いのわざによって新しくされた私たちは、神の霊をいただき、神のみことばに聞き従うことで、人が造られた目的通りの「神のかたちとして」の生き方が回復されるのです。


2. 神が置かれた場所で


 神が造られた人の幸福な姿の二つ目は8節と15節に見られると言えます。

「神である【主】は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。・・神である【主】は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた。」

 一言にまとめれば、人は神の置かれた場所で、神の与えてくださった働きを行うことが幸いだ、ということです。

 先週も少し触れたことだが、私たちの人生は、少しでも良い生活になることを求めて旅をするようなものです。けれども、理想とする幸せにはなかなか出会えない為に、結局最終的な居場所を見つけることはできません。罪を犯して神から離れた私たちの人生は苦しみに満ちています。最後には死を迎えなければならないのです。

 けれども聖書に書かれている信仰者の姿は、そこにどんな苦しみがあろうともそこに留まる姿です。なぜなら、苦しみの中にあろうが、喜びの中にあろうが、そこに「神がおられるから」です。神が私を置かれる場所で苦しみや悩み、痛みがあったとしても、そこに神も共にいてくださり、主を叫び求める人を神は助け、そのわざを成し遂げさせてくださるのです。

 アブラハムも、ヨブも、エレミヤも、誰もかれも、この地で100%安全な地など見つけることはできませんでした。唯一、彼らが安心できた場所、それは、神が置かれた場所で、神と共にいること、私たちを置かれた場所にともにいてくださる神こそ、安心できる場だったのです。彼らは苦しみの中でも、どのような状況の中にあっても、神の中に置かれた者として、永遠を待ち望んだのでしょう。


3. 神が新しく造ってくださった互いを受け入れ合い、愛し合う


 最後にもう一度「関係性」について見て終わりにします。

 神は人を男と女に創造されましたが、最初に造られたのはアダムだけでした。

 神は人をエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせた後に、次のように言われました。

「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」

 これだけを読みますと、神は最初は人をひとりだけ造るつもりだったけど、やっぱり何かもの足りないと思って、思いつきで女性を造ったかのように見える人もいるでしょう。

 しかしそれは全く違う。神は最初から、人を男と女、同じ人でも別個の存在、それぞれに個性を与えることをご計画しておられたのです。

 神はあらゆる動物をアダムの前に連れて来られ、アダムはその動物それぞれに名前をつけました。人がつけた名前は、そのままその生き物の名前になりましたが、それは「人から動物」という一方通行の関わりに過ぎませんでした。「しかし、アダムにはふさわしい助け手が見つからなかった」、つまり、アダムの愛を受け止め、また人を愛し、人を呼び返してくれる存在がいなかったのです。恐らく神は、人は愛し愛される、愛し合う存在であることに気づかせる為に、敢えて動物を連れて来られたのではないでしょうか。

 神はアダムを深い眠りにつかせ、彼の体の一部(あばら骨)を取られ、そこから女を造り、そして動物と同じように、アダムの前に連れて来られました。人は女性を見た時に、これこそ愛によって一つとなれる相手であることを知ったのです。

 そして今日私たちが注目したいのは25節である。

 「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいと思わなかった。」

 ここに完全な愛があります。互いの違いを認め合い、受け入れ合い、尊敬し合い、愛し合うという相互の愛です。

 恐らくアダムとエバは、それぞれの違いを認識していたのではないでしょうか。体の形の違いはもちろんのこと、男女の違いだけでなく、そもそも「わたし」と「あなた」と呼び合うそれぞれは違う存在であることも分かっていたでしょう。それでも彼らは自分にあって相手にないものがあったり、その逆であったりしても、互いに優劣を見ることなく、互いを受け入れ、互いに尊敬し、互いに愛し合うことができたのです。


【まとめ】

 私たちは人が罪を犯し、エデンの園から追放された後の時代に生きています。

だから、アダムとエバが罪を犯す前に受けていたエデンの園における祝福をそのまま受けることはできないでしょう。

 けれども、私たちはイエスを信じることによって新しく創造された人とされました。そして新しくされたその生き方において、第二のアダムとして来てくださった方、イエスに似た者としての幸いをいただけるようになったのです。

 イエスのように祈りにおいて神と深く交わり、神が遣わされ、置かれる場所で、神がともにおられる祝福の中で神に仕える者とされ、互いに違いを認め合い、尊敬し合い、愛し合う「キリストのからだ」の交わりの中に生かされるようになったのです。

 私たちは新しい被造物として、このような天国の前味と言える交わりの中に加えられています。そして主イエス・キリストが再び来られる時、私たちは完全な人とされて、神との永遠の交わりの中に生きるようになるのです。



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